2011年3月30日水曜日

11個目の国内タイトルを目指して

プロ化後の1部リーグにおいて、クルブ・アトレティコ・サン・ロレンソ・デ・アルマグロは以下の大会でカンペオンに輝き、現在10冠。

・プリメーラ1933
・プリメーラ1946
・プリメーラ1959
・メトロポリターノ1968
・メトロポリターノ1972
・ナシオナル1972
・ナシオナル1974
・クラウスーラ1995
・クラウスーラ2001
・クラウスーラ2007

そして、目下いいところにつけているクラウスーラ2011を獲れば11個目獲得です。
が、それに優勝せずとも+1になる可能性が出てきました。
話は今から75年前に遡ります。


1931年に始まったアルゼンチンのプロリーグ。
当初は1シーズン(H&A総当たり)制という一般的なものでした。
しかしAFAは4年目となる1934年の段階で早くも改革に着手し、H&AにHかAかNEUTRALのもう1試合を加えた1シーズン3回総当たり制に変更。
翌年には元に戻したものの、1936年にはまたぞろ新たな試みを始めました。
それが問題のシーズンです。

この年の大会は現在の前期/後期に近いかたちを取り、まず4~7月にコパ・デ・オノール、次いで8~12月にコパ・カンペオナートが開催され、年末にそれぞれの覇者が中立地一発勝負でコパ・デ・オーロを戦うというものでした。

実際に当てはめてみると、

コパ・デ・オノールは勝ち点28(12勝4分1敗)でサン・ロレンソ。
コパ・カンペオナートは同28(13勝2分2敗)でリーベル。
コパ・デ・オーロ(12月20日@CAIのカンチャ)は4-2でリーベル。

という結果に終わっています。

ここで浮上してきたのが、コパ・デ・オーロの勝者=年度チャンピオンなのかということです。
当時の規定にはその記載が無く、ただ「コパ・デ・オーロの勝者はウルグアイのカンペオンとコパ・リオ・デ・ラ・プラタを戦う」とあるのみで、その出場権を賭けただけの試合とも読めます。
1936年にはコパ・デ・オノールとコパ・カンペオナートという別個の大会が行われ、今の前期/後期と同様にそれぞれ優勝チームが存在したのではないか?
(なお、翌1937年からはまた1シーズン制に戻り1966年まで継続、仮に諸々の条件を無視して1936年もそうだったとした場合、サン・ロレンソは勝ち点52で1位、リーベルは49で2位でした)

昨年2月、Centro para la Investigación de la Historia del Fútbolという団体がこれを議題に討論、Perfil Sanlorencistaがサイトに掲載。
これを見たCASLA会長選候補者(当時)のマルセーロ・モレーティが、フリオ・グロンドーナAFA会長にサン・ロレンソの優勝を公式に認めるよう直訴。
しかしこれに対するドンの回答は、「AFAはクラブ代表者からの訴状のみ受け付ける」というもの。
モレーティは仕方なくラファエル・サビーノCASLA会長(当時)に話を持って行くも、選挙を控えて彼に得点を稼がせたくなかったのか、元々重い腰がその時も上がらなかったのか、微動だにせず。
ということがありました。

そして同12月、サビーノが任期を全うし、選挙で勝利したカルロス・アブドが新会長に就任。
モレーティ他敗れた候補者たちは野党として役員に収まりましたが、この件に関しては与野党関係なし。
小委員会を立ち上げて書類の準備を開始し、今週ようやくクラブとしてAFAに訴状を提出するに至りました。
受理したAFAは「数日中に裁定を下す」とのことです。

サン・ロレンソは明後日4月1日が103歳の誕生日。
もし認められたら、大きなプレゼントになりますね。